幼少期に習い事として水泳に通っていた。たしか週2回であった気がする。きっかけはなにかわからないが自分の意志ではなかったと思う。あとから聞くと中学受験をさせるにあたり夏休みの水泳補習を避けるためと言っていた。
この水泳が大変苦痛であった。先生方は丁寧に教えてくれたのだがいかんせん水泳自体に全く興味や魅力を覚えることができなかったのだ。元から心配性な立ちで陸地で安全に呼吸できるにも関わらずわざわざ水に使って泳ぐ必要性を感じなかった。そもそも自分にとっては違和感も強く水に浸かる事自体が嫌だったのだ。
そのような状態で上達するわけもなく、そのうちに習い事は時間さえ経てば終了することに気が付き時間を引き伸ばす牛歩戦術を経験で覚えた。更に他コースを見るとより高度なことを強いられておりプールサイドから離れることに恐怖を感じていた自分はできそうなこともあえてできないようなふりをする戦術も覚えてしまったのだ。
周囲の子どもたちはみるみる上達し上のコースへ旅立っていくのだが、自分は置いていかれてしまう。当時はなにも思わなかったが今思えば自尊心もしらずしらず傷ついていたように思う。小さなダメージも蓄積すれば大きなものになる。
水泳を悪く言うつもりは毛頭ないが、本人にとってつまらない・嫌な習い事は良い影響を与えるのだろうか。しばらくやってみて上達しそうなものであれば多少辛くてもまだ楽しむ要素は出現する余地があるだろう。
しかし、牛歩戦術や弱者戦術を取るようになってしまってからは上達するとしてもスピードは亀のごとく遅く、人生の貴重な時間を無駄にすることだろう。
習い事は自分の意志で決められるわけではない。お金や送り迎えは親がするし、そもそも習い事の情報を本人へ運んでくるのも親だ。子どもにすべての責任を押し付けるのは筋違いだと思おう。
本人が望んでいるのか、適正があるのか、楽しめているのかを感じ取り、そのすべての要素がなかったとして撤退の判断を下す決断力を持った親でありたいと思う。
自分も子どもも人生は有限なのだ。

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