「変」とは

「なんか変だ。」違和感を日常生活の中で感じ、修正していくことは重要なことだ。いままでの経験からミスを未然に防ぎ、安定した日常を維持することができるからだ。

しかし「変」が乱用されるといじめや集団主義的な運動につながってしまうので注意が必要だ。

自分は親から「お前は変だ」といわれて育ってきたが自分で自分を変だと思ったことは一度もない。自分なりに知識と経験から考えて意見を持ち行動していただけだ。私が幼少期を過ごした頃戦後●十周年でよく戦争映画が放映されていた。そんななかで私は「第二次世界大戦は本当に日本だけが悪かったのか」「本当に軍人だけが戦争責任を問われるべきなのか」と疑問を持つようになった。家族に話しても「戦争は悪いこと」「軍人は悪人」とだけ言われて議論は終了し、終いには「お前は変だ」と烙印を押されて今思えば全く不毛な時間を過ごして終わった。

戦時中の話でも当時の人間は馬鹿だったから戦争をしたんだというような軽薄な議論をして終わりになったがそんなはずがないことはわかっていた。昔も今もこれからも生きている人間は必死で考えて行動してその時点で考えうる最高の選択肢だと判断して歩みを進めていくのだ。

今から見たら「変」でも当時は戦争に反対することが「変」であり「悪」ですらあったのだ。

家族についても私は同じようなことが言えるともう。良くも悪くも閉鎖的な環境であり、昨今は核家族化も進んで更に輪をかけて閉鎖的になっている。隣の家族で「良い」とされていることが自分の家では「変」であり「悪」とされることは多々あると思う。

しかし「変」にも希望はあると思う。「変」=「悪」と決めつけて集団を作って排外するという「変」から派生した行動が問題なのだ。

「変」と気がついたら何が変なのかより具体的に言語化する事が重要だ。その中で自分が大事にしていることと他人が大事にしていることが違うことに気がつく、そこまで言って異文化の交流が生まれ理解できれば友だちになれば良美味し、理解できなければ距離を取るだけだ。

しかし、子供の場合は親に「変」の烙印を押されると自分が悪いような錯覚に陥る。それが繰り返されると自分の考え行動することはすべて間違えなのではないかと思い始めてしまうのだ。

自分は治すのに20年以上かかった。

さて、あなたはどうする。

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